暖簾に腕押し
糠に釘
泥に杭
豆腐に鎹


辞書に並べられた文字に沿って指を滑らせた名前は、全て同じ意味を表すことわざ達にくらりと目眩を覚えた。それと同時に、胸の奥から得体もしれない焦燥感が湧き上がる。


名前の恋心がまさしく、それだからだ。


頭の中に浮かんだ"彼"の顔は、清々しいほどの笑顔だ。もやもやと晴れない名前の気持ちとはまるで真逆。
一体、どうしたら"彼"の恋人になれるのだろうか?何十回、何百回と考え、時には行動に移し"彼"にアピールをしてみたけれど、どれもこれも意味がなかったように思う。


ただ、"彼"はいつも綺麗に笑ってみせるだけだった。


あ、そういえば。

ドラ焼きプレゼント作戦だけは効果があった気がする。いつも大人びて見える"彼"が、年相応に瞳をキラキラ輝かせていたのを思い出した名前は、ただそれだけで湯気が出そうなほどに顔を赤色に染めた。


そう、それほどまでに"彼"こと、佐野万次郎に想いを寄せているのだ。


はあ、と無意識に溢れた名前の溜息は、誰もいない静かな教室に響いた。
窓の外から聞こえていたはずのサッカー部の声はいつの間にか静かになり、青い空も橙色に移り変わっている。

国語の宿題をしていたはずなのに、未だに空欄が埋まっていない用紙は、名前の気が逸れてしまったことが原因なのは明白だ。

"暖簾に腕押し"の意味を調べて空欄に書くだけの宿題。

なんだか悔しくなった名前は、眉間に皺を寄せた。絶対に意味なんか書いてやるか、そう心に誓った名前は、勢いよく辞書を閉じた。




「こらー、物は大切に扱わないとない駄目だろ」


分厚い辞書が閉じる音が重く響くはずの空間に、想い焦がれていた大好きな声が重なり、名前の心臓がドキリと跳ねた。

ドクドクと高鳴る音を誤魔化そうと胸に手を当てれば、教室の入口に立っていた万次郎は「名前、ビックリしすぎだろ」と笑いながら軽い足取りで名前に近づいてきた。


そのまま彼女の隣の席に座った万次郎は、初夏を感じさせる暑さから逃れるように、ワイシャツの胸元を掴んで軽くあおぎはじめた。

綺麗だけどしっかりと骨張った指先。
それが男性だからなのか、喧嘩をしているからかなのかは分からないけれど、思わず見惚れてしまうには充分なほどの色気を纏っていた。
名前は自分の頬が熱を帯びていくのを感じ、慌てて手で覆った。


「... 名前、なに?」
「い、いえ、なんでもないです」
「なんで敬語?」
「...思わず?」


ふーん、と言いながら目を細めた万次郎はどこか楽しそうに肩を揺らした。それと同時に、小さく揺れた彼の学ランにすら名前はドキリと胸が跳ねる。

ああ、もう、好きでどうしようもない。

溢れでそうになった気持ちを、ぐっと飲み込んだ名前は崩れ落ちるように机に突っ伏すしか逃げる術がなくなってしまった。


「悩みごとでもあんの?」
「...まあ、うん」
「俺が聞いてあげよっか?」


上から目線なのが若干気になるが、それもこれも彼らしい言葉。暴走族の総長だからとか関係なく、佐野万次郎はとても優しい。
だから名前は、彼が好きで仕方ないのだ。

万次郎に気付かれないよう、名前はゆっくりと深呼吸をした。少しだけ気持ちが落ち着いた名前は恐る恐る机から顔を上げて、彼と視線を重ねた。


「万次郎君に分かるかな...」
「... 名前が俺に喧嘩を売るとは思ってなかった」
「いや、違う!売ってないから!」
「じゃあ、何?」
「えっと...、これ!この問題が分からなくて、」


にっこりと効果音がつきそうなほどの笑顔を浮かべている万次郎。その表情とは裏腹にほんのりと怒気を含んだ声を聞いて、慌てて振った話題は国語の宿題。
まさか、彼の恋人になりたくて悩んでいるなんて、名前は言えるはずもなかった。


「"暖簾に腕押し"の意味がわかんねーの?」
「そうなんだよね」
「さっき辞書開いてたじゃん」
「ううっ、」


痛いところを突かれた名前は、何も言い訳が思い浮かばず、唇を強く結ぶしか出来なかった。彼は結構頭が切れるところがあるから、下手なことを言ったって嘘だとバレてしまうだろう。
いよいよ逃げ場が無くなったかと彼へ思いを伝える覚悟を決めると同時に、名前の背中に冷や汗が伝った。


その瞬間、万次郎がゆっくりと口を開いた。


「力を入れても手答えがない、か」


ぽつり。
独り言とも取れそうなほどの声量だったが、静かな教室で彼の言葉はしっかりと聞き取れた。


「名前の悩みって、恋愛事?」


少しだけ首を傾けた万次郎君は、しっかりと私を瞳に写しながら聞いてきた。彼の深い瞳からは何を考えているのか分からなくて、すぐに返事が出来なかった。ごくり、と言葉を飲み込んでしまった私を万次郎君は催促することなく、ただ、静かに待ってくれている。


「...えっと、うん。そうです」
「そっか。それなら丁度いいじゃん」
「へ?」
「好きな奴を振り向かせたいんじゃねーの?」
「まあ、そうだけど...」


万次郎君は右手を顎に当てながら、うんうんと唸り出した。真剣に考えてくれている割に、小さく上がっているように見える彼の口角。それが視界に入った私は、妙にそわそわしてしまう。これから万次郎君は、いったいどんなアドバイスをしてくれるのだろうか、と。

どれくらい時間が経ったのか分からないくらい名前は緊張でいっぱいになっていた。名前の体感では1時間ほどだったけれど、5分も満たず何か楽しいことを思いついたかのように笑顔を浮かべた万次郎とは時間の感覚があまりにもズレていた。



そして、ズレていたのは愛情表現しかりで。



「名前は俺のために小指を落とせる?」



名前の瞳を真っ直ぐ見つめながら、万次郎は名前の左手に、自身の指をゆっくりと絡めた。


「俺は落とせるよ。名前のためなら」


ひんやりと冷たい万次郎の指先が、名前の指先を確かめるようになぞってゆく。彼の整えられた爪が名前の皮膚を時折引っ掻くような背徳感は、名前の思考回路を溶かすには充分すぎる刺激で。万次郎の言葉の意味を上手く処理できない名前は彼の指先が小指を撫で上げる仕草に誘われるまま、ゆっくりと口を開いた。



「万次郎君、私の小指を落としてください」




震えることなく、確かに言葉を紡いだ名前。

彼女の覚悟を受けた万次郎は、絡めていた指先に思わず力が入る。痛くなかっただろうかと心配になり、名前の表情を確かめるが、彼女は表情ひとつ変えずに万次郎をしっかりと見ていた。



「... 名前のばーか」
「そう、かな?」
 


戸惑う名前の言葉に万次郎は返事をしなかった。
彼女の赤い唇に、甘く噛みついたから。






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